龍野城下町の圓光寺にて、宮本武蔵が修行していた🥷 – ニシハリエブリー!西播磨No.1ポータルサイト

龍野城下町の圓光寺にて、宮本武蔵が修行していた🥷

宮本武蔵が修行した寺

龍野城下町には、誰もが知っている

二刀流宮本武蔵の修行の地があるんです❗️

知っている人は知っている☝️☺️

全国から武蔵ファンも訪れるお寺なんですね😲

そんなお寺『圓光寺』へぶらり🙏😌✨

圓光寺のホームページより歴史や

宮本武蔵との関係などについて

詳しく掲載されていますのでご紹介💁‍♀️

まずは、《圓光寺の由来》から学ぼう👨‍🏫💡

開基は多田祐全、摂津多田(現在の川西市)の生まれ、多田(源)満仲の子孫、源家菩提の為、出家して天台宗の学僧となる。

後に蓮如上人の教化を受け浄土真宗に帰依し蓮如上人の直弟子となる。

文明十六年(一四八四年)蓮如上人の命により、播磨の国英賀に来たり、英賀城三木家の帰依を受け道場を開く。その道場を後の人は「文明道場」と呼ぶ。

道場は城の西北・人丸町(現在は夢前川の河川敷)に在り、文明年間より天正年間まで英賀に在住した。

文明道場が出来て後、播磨の国に浄土真宗が広まり、文明道場は播磨浄土真宗の始点とされている。

文明道場は後に圓光寺と号し、天正六年(一五七八年)豊臣秀吉の命により龍野に境内を賜る。

江戸時代に御坊に列せられ龍野(玉川)御坊と称し、播磨六坊の一つとして現在に至っている。

《圓光寺と宮本武蔵》

龍野圓光寺は山陽道に近い名刹として、古来、多くの念仏者や文人墨客を迎え、文化の拠点としての役割も果たしてきた。

そんな多彩な来客の中に剣豪の宮本武蔵がいました。

最近、武蔵と圓光寺の深い関わりを知って来山下さる方が多くあります。

このたび、境内に「武蔵修練の地」の石碑を建立しましたのも、多くの方の関心をしっかりと受け止め、圓光寺が初代祐全からずっと保ってきた人間としての生き方の一途さを、武蔵を語りながら皆様と共有したいと念じております。

人間宮本武蔵の透徹した生き方そのものが念仏者の心に通じるものといえるかもしれません。

そこで「圓光寺と宮本武蔵」のあらましを伝えることにいたしましょう。

武蔵が十三歳のとき、佐用平福で新当流兵法者有馬喜兵衛に勝ち、十四歳で多くの剣士の集る龍野で旅装を解き、約二年圓光寺道場で鍛錬の後武者修行に旅立ち但馬の兵法者秋山新左衛門に討ち勝ちました。

慶長五年(一六〇〇年)武蔵十七歳のとき、関ヶ原合戦に出陣しましたが戦に敗れ龍野へ帰りました。

この時武蔵十八歳とされています。

この頃の圓光寺住職は第六代多田祐仙でした。

多田源氏の系譜を継ぎ、石山本願寺の法難にも果敢に戦った当時の圓光寺にすると武道は欠かせないものとして寺の武芸道場で「圓光寺流兵法」を伝えていました。

武蔵は圓光寺道場で圓光流の兵法を学びました。

しかし武蔵は美作で過ごした少年時代、養父から右手に太刀、左手に十手槍を持つ刀槍術を習っていましたので、その二刀方式を圓光流に加え、「圓明一流」という武蔵独自の兵法を圓光寺道場で創出して定着させました。

二刀によって描く「圓」に完全無欠さを表し、「明」には並みの人に見えないものを見分ける明るさを表したものと伝えられています。

太刀と小刀の二刀で戦う武蔵の兵法はあくまで両手に利き手並み手の力を発揮させるのが基本で「馬上で手綱と太刀を持つ」「狭い場で戦う」「大勢に囲まれる」場面に有効だとしていました。

武蔵が圓光寺道場で鍛錬していた三年間の間に京へ上って吉岡一門と三連戦を戦います。

その三戦で百人近い吉岡勢に闘い勝ったのも二刀流の成果でした。

吉岡一門との決闘を終えて圓光寺に帰った武蔵は慶長十年(一六〇五年)奥座敷で瞑想しながら初めての兵法書『兵道鏡』を書き上げて武蔵流兵法を確立し、早速、地侍の落合忠右衛門に「圓明一流の兵法」の印可状を与えています。

この後も宮本武蔵は巌流島の決闘を前にして訪れ、佐々木小次郎を相手に想定した鍛錬を行ったと伝えられています。

さらにしばしば圓光寺を訪れて門弟を指南し、多くの弟子に印可を与えています。中でも圓光寺第五代祐應の三男多田半三郎が弟子としてよく知られています。

■上記内容は下記ホームページより引用

http://enkoji.com/c4.html

少しは、圓光寺に興味が湧いてきたかな❓

ぜひ、龍野城下町に訪れたら寄ってみてね🤗

【龍野御坊 圓光寺】

〠679-4177 兵庫県たつの市龍野町下川原101

0791-63-0485

🔻Google Map URLクリックで場所確認👇

https://goo.gl/maps/kZbxpcLBCguoewMx6

関連記事一覧