戦国時代に乱戦の舞台となった上月城跡へ🏯【佐用町上月】
戦乱の舞台となった上月城跡🏯
今日紹介するのは、佐用町の上月城跡です🤗
この日は、毎月恒例のお墓参りの後にふと
立ち寄った「皆田和紙 紙すき 文化伝承館」へ
訪れたあとに登ってみましたぁ(๑>◡<๑)
運動不足と、山登りには慣れていなく、
結構思ってたより傾斜がキツかった😅💦
頂上まで登ると、、、
城主をはじめ戦死者を供養する250回忌
の供養碑がある本丸跡がありました!
小高い山ですが木々の間から見下ろす
佐用町の風景も良かったですよ(*≧∀≦*)
登上口付近にある看板を読んでみると、
悲惨な戦乱の舞台だったというが分かる。
🔻史跡や歴史好きな人は、読んでみて📖
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□■□【上月城跡】 □■□
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📮679-5524 兵庫県佐用郡佐用町寄延
🔻Google Mapで位置情報Check🔻
https://goo.gl/maps/kHGp5L5CMXMUh6iA7
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■上月城の詳細は、佐用町HPでチェック■
https://www.town.sayo.lg.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=2236
戦国時代の織田と毛利の攻防の地として、
また尼子家再興に燃えた尼子氏、山中鹿介
の最後の地だったそうです。
播磨・備前・作州の三国に接する要所を
治める上月城主の赤松政範・[赤松]又は、
七条・上月十郎[景貞](諸説あり)が、
毛利に与していたため、天正5年11月、
秀吉率いる織田勢の矛先は佐用の地へと
向かい、福原城落城後に上月城を攻撃。
なんと、3か月に及ぶ籠城戦だったみたい⚔
城中の謀反者により城主が斬殺されたとも
伝えられているとか。
城内の家臣は、降伏を申し出たが、
秀吉はこれを許さず、12月3日の
総攻撃によりついに上月城は落城する。
そして、全ての城兵は斬首、また城内に
いた200余人のうち女性は磔、子どもは
串刺しにされ国境に晒されるという凄惨な
結末を迎えるというなんとも悲しい歴史。
その後、一度、上月城に尼子勢が入ったが、
翌年4月に3万にも及ぶ毛利の大群に城は
包囲されたのちに、織田勢の撤退によって、
上月城は天正六年七月に落城した。
信長・秀吉・毛利氏によって翻弄された上月
城は、尼子氏の最期と共に歴史の幕を閉じた。